旅も登山も風景や花があって、幸せを感じます。豊かな気持ちになれます。

三猿(さんえん)
 割れた眼鏡は見えんから3円だという古道具屋の話しでもありませんし、三河遠江の三遠という地理歴史の話しでもありません。
 馬に因んだお話しです。
 日光東照宮の神馬をつなぐ神厩舎の長押(なげし)は、皆様ご存じのミザル・イワザル・キカザルの三猿が彫られてあることで有名でございます。
 で、なんで猿なのかっていうと、馬の守り神は猿ということになっているからなんだそうです。
 午年の皆様、申年の人を大切にするときっとよいことがありますぜ。
 ところで、日本では三エンということになっていますが、他国では四エンとなっているようです。水で薄めた酒で酔えんから4円なんてことではござりませぬ。
 論語に曰く、非礼勿視 勿聴 勿言 勿動(礼にあらざるものをみるなかれ きくなかれ いうなかれ おこなうなかれ)なんてのがあるから、それが影響しているのか結構多くの国に猿の彫り物や置物があるらしい。
 さるものは ひびにうとし・・・なに?意味が違うって?
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頼み方が下手だと
周りにいる人たちのことを、「気が利かない」と怒っている人がよくいます。
こういう人たちは、大抵の場合本人の能力が高い。
しかし、気を利かして欲しいと思っていることの大半は、本人からみてどうかということであって、他の人は違うことを考えていても不思議はない。
 人にはそれぞれ持って生まれた資質に沿って、得手不得手というのがあって、それはそれで社会のバランスが取れるようになっている。
気が利かないと怒っている人は、実は頼み方が下手なことが多い。「こうして欲しい」と気軽に口にすれば、気持ちよくやってくれることが殆どである。
怒りの波動は、本人にとっても体を痛める結果を招き不幸だが、周りの人も寄り付かなくなってくるから、よいことではない。
性格的な持ち味は生まれついてのものであり、それに優劣はないのだということにお互いが思いを致すことができないと、ぎくしゃくしたものが溜まりやすいから、配慮というのが大切になる。

 近年、絆ということが見直されてきていて、良いことだと思います。
 絆という字は、糸偏に半分と書きます。語源は、布地の形成にあると言われています。
縦糸と横糸の結びつきが緩ければ、丈夫な布地はできない。
 友達や同級生や同僚との付き合いは大事にするのだけれど、縦の繫がりである親子や先祖、上司や先輩ということになると、敬遠しているように見えてならないことが多い。
 縦から連綿としてつながってきている愛情や知恵には、もっと心を開いて近づいた方が良い。
 もういない先祖のことを思ったってしょうがないと言うかも知れないが、それがそうでもない。
今ある自分は、先祖や親があってのことだが、「生んでくれと頼んだわけではない。」などと言うのは違うようなのです。
「この両親の間に生まれさせて下さい。」と、自分が頼んで生まれてきたのだと解っている人が沢山いるようなのです。
 いずれにしても、親や先祖を大切にしている人は、信頼されるようです。
 幸せは、そんなところから開ける。

ぬぐいようのない不安は
 言い表せないけれど、そこにいつも確実に有る不安に、誰もがつきまとわれています。
 不安を抱えながらでは、何をやっても上手くいかないのは当然です。
 それは必ず、成功への努力の足を引っぱります。不安こそが上手く行かないことの元凶ということになります。

 前向きに考えることで不安から逃れようと思ってみても、気がつけばそこにドップリ嵌りこんでしまっているのが人の常です。

 では、どうすれば良いのかということになるのですが、不安は誰かに丸ごと預ってもらうのが一番良いということになります。
 しかしながら、そんな面倒なものを、一体誰が預ってくれるでしょう。
 それを快く預って浄化までしてサッパリさせてくれるのは、子孫の繁栄を願っているご先祖様以外ありません。
 でも、ご先祖様だってタダでは嫌だって言います。
 そこで、墓石クリーニングをして綺麗にしてあげるから、そのかわり預って下さいとお願いするわけです。バーター取引です。

 改めて考えてみなくても、世の中は何にでも対価というものが必ずあります。
 費用は少しお酒かタバコを控えれば、できてしまうくらいだったらどうしますか?
神様は、高額なお賽銭を要求することはありませんし、壷や置物を買えとも言いません。

「自分でもできる墓石クリーニング」というページがあります。
http://www.kng2321-cbs.com
読んで、なるほどと思えたら、やってみると良いと思います。

言葉を大切にすることの意味
 科学とは、同一条件であれば誰がやっても追認できることと言えようが、論理的に齟齬矛盾がないことが必要である。
 論理とは、思考の道筋であり、それらは言葉を使ってなされるから、正確かつ適切な表現であることが求められる。
 言葉は、文字や絵や記号、或いは音楽などによってあらわされるが、その時点で無形だったエネルギーが現実化されることになり、更には物質化の段階に進む。
 良い言葉で表されたエネルギーは良いものを創造し、波動の悪い言葉で表されたエネルギーは破壊へと繋がるであろうことは、因果の法則上推し量ることができよう。
 思考が現実化するとしたら、言葉というのは大切な意味を持つ。

やろうかどうか迷うときには
 やるかどうかを迷うとき、基本的にはやった方が良い。
 ただ、何でそれをやろうかと思ったかの動機は、何らかの気づきや縁や目にした聞いた薦められたということが殆どであろうが、躊躇う原因というのは、騙されているのではないかという恐れに起因するのであろうことも不思議ではない。
 神様は、多額のお金がかかることや、負担が大変なことをやれということはまずないから、
そんなことも判断基準として、できそうなことであればやる方が良いということになる。

因果
私は別に宗教家というわけではないんですがネ。

 世の中に因果律というのは確かにあるのだろうけれど、原因があれば必ず結果が出るというものではない筈です。(逆に結果は、原因なしに発生することはない。)

 原因は、なんらかの縁(環境)を得てはじめて、結果を出すのだと思われます。
 例えば、種という原因が、温度や湿度という環境が整って、芽を出し花を咲かすというように。

 意識下に沈んでいる善悪諸々の種は、何らかの縁(環境)に触れると目を覚まし結果に結びつくのだとしたら、悪縁に触れれば悪果を、善縁に触れれば善果を現出するということになるということ。
 だからよいことをしましょうということで、先人がそれをすると良いと教えるように墓石を綺麗にすることを熱心に勧めるわけです。

 良いといわれることを全部やったって、なかなか望む結果が得られるわけではないかも知れないが、潜在意識という精神世界のことに近いものとして、墓石クリーニングをやるときの瞑想状態はよいのではないかと思うのです。

ツキのお話
 ツキと言っても、月のことではありません。
 今日はツイているとかツイていないとかいうときのツキのお話です。

 自分をついていないと嘆く人は、極端な言い方をすれば、つかなくなるようなことばかりしているのではないでしょうか。
 不平不満ばかり言っていて、気づきさえすれば、そこにツキの種があるのに、自分からは何もしないで、つかなくなるような考え方や生き方をしているのかも知れません。
 他人や世間や社会や政治のせいではないのにです。

 ツキは生き物。誰にでも気づきのチャンスやお知らせはあるのに、既成観念に捉われてしまっていて、頭で理屈付けをして素直にものごとをやらないから逃がしてしまっているのではないだろうか。
 この次とか、後でということはないらしい。
 気づくという感性をみがかなくてはならないと思うのです。
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