最近、風呂上りに使ってなかなか良いとおもっているバスタオルがあります。
茶色と白の模様織になっているのですが、この茶色がオーガニックカラードコットン。
オーガニックというと、最近は一目おかれるようになった。
綿花の原種は、茶色だったのだと聞きますが、色を染めるのには白のほうが適しているので、大量に栽培されるようになったのは白い花のものです。
私もプランターで育てたことがあります。
ただ、染料は化学薬品が多いということで、染めなくても元々色がついているカラードコットンというのが珍重されるようになり、茶・緑・紫などがあるのだとか。
神様は、乗り越えられないような困難をお与えにはならないのだとか。
何事も、なんとかなるのであります。
「お上が、ご苦痛であると思し召すほうを、この際はお選びになるべきであります。」というのを読んで連想したのが、「その方等はよいのう。朕には辞職がない。」とおおせられた明治天皇のおことばでした。
「みんながそうしているから」関連のいくつかからの意見。
そもそも農耕民族は、種まきの時季にしろなんにしろ、長老を始めとする皆と合わせることが上手くいくというあたりが、狩猟民族と違うところであります。
たしかに、家畜を追って草を求めるには、人と同じ事をしていたのでは、既に食い荒らされた場所を辿るに等しいから、豊な草葉を見つけるのには、経験のある長老でなくても若い閃きのあるリーダーに従うことが多かったろうから、主張しあうということに馴染みはあったと思われる。
農耕民族である日本人は、自分の意見がないといわれるが、ないのではなくて、それぞれの信念、哲学、矜持を内に秘めながらなお、皆がよかれと、言わず語らず理解しあい選んでいく智恵を、2700年の歴史のなかに育んだのである。
自己の権利主張を声高に叫びはしても義務をないがしろにして憚らず、はては自国をも自虐的におとしめるような論調を不思議とも思わず、我さえよければ他を省みなくなってしまった結果が、昨今随所にみかける破廉恥きわまりない所業となって現れているのではないだろうか。
いつからのことなのかと嘆かわしく、失われてしまった美徳の数多かったことが思われてならないのであります。
愛国心は強制されるべきでないとの主張はその通りだろうけれど、国を愛さなくてもよいと教えるのもまた極めておかしなことであろう。
外国を旅して思うのだが、彼等は、自分、または店、或いは会社のミスに対し、「それ、自分の担当じゃない。」「知らない。」「関係ない。」と言うのが大半であり、最高によい状態とおもわれる謝りかたでも、せいぜいが「それは貴方にとって大変不幸なことでした。」というなんだかわけのわからないコメントがあっておしまいである。
ソレに比べ、日本がいかによい国であることか!日本スタンダードのほうがいいと思う。
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時代小説 「夏風越の(なつかざこしの)」
かれこれ10年ほども前になろうか。白根山にのぼったとき、斜面のガレバ一面に、指先くらいしかない小さなコマクサがたくさん芽を出しているのを見た。
絶えてしまったのを悲しんで、この地に再生しようとしているのだが、このくらいの大きさに育つのは、タネを蒔いてから7年は必要だとの説明があった。
その後、家内が鹿嶋槍ヶ岳から五龍岳に縦走しているとき、岩場で手招きしているおじさんがいるので近寄ったところ、まだ内緒の場所だけど、私がタネをまいたのだといって、小さく葉を出しているコマクサを見せてくれたという。
「白根山の中腹でも同じような光景を目にしたことがある。」と話したところ、「あれも私が白馬山で採取した種を蒔いたものなんです。」といって、持参していた本を見せてくれたのだと、帰宅するなりすぐ聞かせてくれたことを思い出します。
八ヶ岳でも、タネをまいたことによって育ったという所がありますが、最近は行く先々でコマクサを見ることが多くなったように思います。
心無いひとが、あとさき考えずに乱獲したり踏み荒らしたりして絶えてしまったものを、他の援助もないところで復活させるご苦労は並大抵のものではないと思うのは全くその通りなのですが、それでも敢えて言いたいことは、綱を張ったり柵で囲った自然なんていうものがあるのだろうかということ。
もっと鼻持ちならないのが、正義の味方面してものを言って歩く監視員みたいなのが出てくること。
大多数は節度や配慮を心得た人なのに、故ない注意をされて砂を食むような思いに至らされたのではないかと見て取れるような場面に遭うことがよくあります。
私みたいに、「人を見てものを言え。」なんて強く返せるのは滅多にいないんだから。
もろもろのまがごと つみけがれを 祓いたまえ浄めたまえ・・・
というのは神道の祝詞ではございますが、仏様だって同じこと。来世のことではありませぬ。
およそ、人智を超えた偉大な世界があることに一顧だにしない人はいないかと思いますが、目に見えないとか証明できないとか限られた知識の範囲で無いと決め付けてしまい、本来は無限の可能性を持っているかもしれない自らの世界を、自ら狭めてしまっていることって多いのではないでしょうか。
そういう「何か偉大なもの」への接点は清浄であることだと、修行を積んだり天啓を得たり或いは生活のなかでの経験で気づいた人たちが言ったり書いたりしたものは、かなりあるのでしょうが、幸せを求めはしても、そこに考えを至らせることは少ない。
多分ですが、今回心を込めてご先祖さまと向き合った時間のなかで、自分の中に流れ込んできている何らかの意識は、今は気づいていなくても、これから広がりをもつのではないかと思います。皆さんそうおっしゃいますから・・・
蚊に生き血を吸われながら、さりとて殺生もならずという仕事をされたら、蚊帳の外がいかなるものかと感じられたと思いますが、「私一人が蚊帳の外」というのと違って、本来は茅の外、即ち結界の外というところからきているのだとおもうのです。
外どころか、結界のなかにいたのだと思われてなりません。
T電鉄の駅ホームのこと。
降車ホームと乗車ホームが分かれているにも拘わらず、なに考えてんだか自分の都合だけで乗車ホーム側から降りて歩く身勝手客と、発射時間に間に合うように急ぐ乗車客が交差して混雑するのが常だったのだが、このところ降りる客も乗る客も一方向にだけ流れるようになってすっきりしています。
突然、客のマナーが良くなったというわけではありません。なぜでしょう?
いたって簡単なことなのであります。
乗っていた客が全部降車側ホームに降りるまで、乗車側のドアを開けないようにしただけのことなのです。こんなことすら長い間おざなりにされていたってことです。
ちょっとの工夫、っていうほどのことでもないことだけど、いいわいいわで放っておけばいつまでだってなおらない。
悩みの大半は、まだ起ってもいないことを先回りしてくよくよするということが多いようです。
普段からこころがけて用心しておくことは大切ですが、困難に当面してからでも真剣に努力すれば間に合うというのが殆どだと言われます。
神様は、人間が乗り越えられないような試練は、お与えにならないのだとか。
仕事で初めてお掃除をすることになったとき、掃き方も拭き方も下手で、只夢中でわけもわからず時間ばかりが過ぎて、その割には結果が綺麗になっていたとはとてもいえなかった。
段々慣れて、手際よく道具を使えるようになると、「ごみはなくなったけれど、床に汚れが残っている。」とか「隅々が綺麗になっていない。」とか「壁などの立体面の汚れが気になる。」とか、射し込んでくる光線に浮かんで見える埃が多いけどなんとかならないものだろうか、とか次々に綺麗さの要求度合いが上がってきます。
そして、やってもやってもまた次には汚れてきて、いつ果てるともない繰り返しがあるのだという現実に気がつくのです。
それを馬鹿らしいと思わず乗り越えていかねばならないのです。
タイトルの「のぎ」についてなのだが、ノギとは「禾」のこと。これがなんだか知っている人って案外少ない。
カホンカ植物の「カ」すなわち「禾」は、稲や麦の種子の頭についている肌に触れるとチクチクして痒い、ちょんと尖って出ているトゲみたいなのをさして言います。
で、それのなにが大事かっていうと、「和」とはなにかということ。
ノギは穀物のとくにイネ。それを一緒に口にする、別の言い方をすれば同じ釜の飯をくうってのが和のはじまりということになる。(ゆめゆめうたごうことなかれ)
なんですと、食ったんじゃなくて液体にしたのを飲んだんだろうって?
美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。
言葉を磨くということも、大切なことです。
思考は、言葉を通じてなされますし、思考は潜在意識に刻まれて実体化するといわれているからです。
しかしながら、その前にもう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。
最近の若い人の話を聞いていると、すげ~、おいし~い、かわい~い、~なんだし~ なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてこない。
今の若い人の感性は優れているのだから、表現力を磨かないと勿体無いと思うのです。もっと国語を勉強しましょうネ。
なかには、モロ哲学っぽい議論をしているむきもあって、聞いていて感心することもありますが、言葉遊びに留まってしまっては、これもまた勿体無いこと。
言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないでしょうか。
乱れが続けばそれが定着してしまいます。
言葉は一種の波動ですから、玄妙なところで精神や肉体に影響を及ぼすかも知れません。
美しい言葉は、幸せをも運んでくるでしょう。人間は太古の昔から、音楽にしろ芸術にしろ、つまるところ美を求めてきたことは、それが幸せに結びつくことを願ってのことではないでしょうか。
人は、顔も洗うし風呂にも入って身体を綺麗にします。その上に化粧をしたり身支度を整えて周りの人に接します。
汚れたままでいれば、人が寄り付かないばかりか避けて通られるようになり、運だって逃げてしまうでしょう。
しかし、自分の上っ面だけ綺麗にすれば事足りるといえるかというと、それがそうはいきません。
磨かねばならぬものがいっぱいあります。
知っていても、或いは気づいていても、それを綺麗にすることをしないで、ただ運が悪いだのツイテいないだの言っているのではどうにもなりません。
自分ではどこを磨かねばならないか、ちゃんと分かっているのに知らない振りをしているということなんですから。
部屋であったり、トイレであったり、心であったりでしょうが、ご先祖様の眠る墓石のことを考えたことはあるでしょうか?
野ざらしで汚れるのにまかせていていいはずがないと思うのです。
時間をかけて静かに墓石のクリーニングをしていると、ご先祖様がそっとどうすればいいのか気づかせてくれるのだと、自分でクリーニングをした人たちは皆が言います。すごく穏やかな気持ちになれるのだと・・・
「自分でもできる墓石クリーニング」というページがあります。
正装に威儀を正してとか、衣紋を正してとかいいます。
大切な人や初めての人に会うときは、身じまいを整えます。粗相があってはならないという礼儀上の意味も勿論あるでしょうが、別の捉え方もできます。
心理学者アルバート・メラビアンが提唱したので「メラビアン」の法則といわれますが、人の言動のうち、他人に影響を及ぼす要因としては、話の内容などの「言語情報」が7%、口調や話す速度、声色などの「聴覚情報」が38%、見た目など「視覚情報」が55%を占めるのだといいます。
わざわざだらしない格好をしたり、不潔にみえるような支度を敢えてしている人がいますが、多分なにもいいことはありません。
西洋には天馬というものがいるらしいが、東洋では神馬はいても空を飛ぶ馬というのを聞かない。
空を翔るのは神変大菩薩の化身とも言われる天狗すなわち犬。
むかしの人は理解を超える超常現象に遭うと、それを無いと否定してしまわないで、あるんじゃなかろうかと受け入れたのだと思います。
いま、人間にとって空気とか水のように本当に不可欠のものは、something great なものから無償で与えられていることに気づいてみると、感謝せずにはいられない。
「大気」「元気」「気力」「気合」・・・などなど、目にみえたり触ったりできなくても、有るとしたからできている言葉。
現代、空気の存在を疑う者が誰もいないのも、初めには受け入れ、後に証明した人があったればこそのこと。
「気」ということだけなら、そうとしか思えない現象を誰もが体験できる方法があることを私は教わったことがある。
しかしながら、理解を超えることを悪用して世人を惑わす輩が過去に沢山いたから、人は理屈で説明できないものに対して用心深くなってしまったのかも知れない。
体育館での朝礼かなんかが終わって教室に帰る途中、友人が「昔の人は、岩が砕けて砂になるんじゃなくて、砂が成長し段々大きくなるんだと思ってた。それが岩となって、さらにそれが苔むすまで・・」というくらい長い年月のことなんだと、教えてくれたのが今から50数年前のことだった。
だからこれ、千代に八千代にサザレイシの巌となりて苔のむすまで、というのは目出度いことになる。
世田谷観音の境内にサザレイシというのがあって、石から溶け出した液体が周りの小石を咥え込んで大きくなっていくらしき様子を見せるのがあるのですが、それを見たときに、「まてよ、どっかで聞いた話だな」ってんで思い出した。
漢字で書くと垂迹。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんていうことを、中学時代の社会科だか歴史かで習ったと思うけど、忘れてしまった人が多いでしょうから、辞書を引いて調べて下さいネ。
ニュアンスは違うけど、化身みたいなもんです。
牛頭・馬頭(ごず・めず)大王が出てくるとは思わなかったけれど、熊野の誓詞を交わすっていうのは、武将同士の約束の際の手続きとして信長さんの頃まではよく聞きます。
どうして誓詞が熊野にしかないのかってことについて、昔小耳に挟んだことを思い出しました。
神様を介して固い約束事をしたのに、それを反故にしたら罰があたるからと恐れたなどということではではなくて、それを強制させる見えない組織があり、約束を破るとどこまでも追い詰めて制裁したんだというから、その強制力を恐れてのことであったとか。
ほんとかどうか知りませんが、昔にはそうであったかも・・・。
そういうことがあったかどうかは別にしても、自らを律するということについて人は、約束を守るというのを自然に身につけたのではないだろうか。
「お天道様に恥ずかしくないように・・・」これって、古いと言い捨ててしまっていいのかどうか・・・
身体の中の悪いものを出尽くさせるデトックスと言われる言葉を見聞きすることが多い。
食品であったり薬品であったり物理的に外からの作用に恃むものなど、数多くあるが、いうなれば身体のお掃除ということだから、真剣にならざるを得ないようです。
関連して、岩盤浴というのが1時期はやりました。
熱せられた岩盤の上にバスタオルを1枚しいて寝転んでいると、汗と一緒に老廃物が体内から排出されるということであるが、高温多湿な室内は、かびや雑菌も繁殖しやすいというが、防御策は講じられている。
サウナのあの刺すような暑さと違って鼻も乾かないし、楽に汗を搾ることができ、身体も温まる。
銭湯の倍くらいの費用で利用できるところが方々に在るので、そんなに負担にならず気軽に行くことができます。
いかんせん、そりゃ無理難題。
その七十何歳かになるとおっしゃるお医者さんが29歳、夫人が27歳のとき結婚したんだという。
この年になって、時に喧嘩すると、「18の昔に還してください。」と言われルンだって。
いくら医者だからって、そりゃできませぬわな。
清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。
心を洗うということもよくいわれるが、洗うということには。いろいろの意味がある。
さて、食べ物を洗うということについてですが、体の中に入れるものは出るものとは違い、何であれそもそもが綺麗なのではなかろうか。
それでも、洗って綺麗な方が美味しいことはちがいない。
猿のことであるから、電話もTVも手紙もないのにである。
この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。
よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことではある。
話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが、捨ててある。
近所にある高等学校の生徒が、コンビニで買い求めて食した後、置いて帰ったものである。
誰が片付けるのことになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけである。
一人一人のときにそんなことはしないが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でする。
他人への慮りなどという人間のもつ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらなしに「自分さえよければ、」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。
猿にも劣るこういう行為も、やる人が増えて伝播したのだろうか。
私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。
熊が居そうな山はオッカナイから、車で入ることのできる山へ山菜採りにつれていってもらいました。
くーるまにつんだ~たからものー・・・いぬがあとおすエンヤラヤー・・・ってくらい採れました。
なんですと?そんな歌は知らないって?なにをおっ者る鵜鷺さん。
それは、知らないではなくて忘れたといいます。桃太郎の歌です。

季節はずれの話題ですが、都会の鶯の鳴き声は拙いのだとか。
山中とちがって里のウグイスはウグイスづきあいがないのかも。
近頃は、人里にあっても人の付き合いが薄くなったのか、親子間にあってさえ、いとも簡単に痛ましいとしか言いようのない事件をつぎつぎに起こしている。
可愛がり可愛がられた経験がないのかも知れないが、犬猫にも劣っているような有様には、いかんせん手の出しようがない。
縦の繋がりは、先人の経験や知恵を伝えるに力があったし、わきまえということもその中で自ずから身についたのではないかと思うが、変に物分りがいい知識人?というのが声高に内心の自由なんてことを言って、子供を未熟な判断しかできない段階から野放しにしているから、社会における最低限のマナーさえ守らず義務も果たさないで平気、という輩が増えたんじゃないだろうか。
それがそのまま大人になったのでは、次の代はたまらない。
いい子は一杯いるけれど、そのいい子たちが憂き目を見るのが日常ということでいい筈がない。
古い話になりますが、中学校のときの成績が音楽と技術が2という以外はオール1だったという方が、20歳のとき一念発起して、九九もままならなかったところから、小学校の3年のドリルを皮切りにやりなおして、難関名古屋工大に合格、大学院も経て母校の先生になったというのを見ました。
ご本人のご努力もさることながら、周りに親身になって協力して下さった方が沢山いたのだと思います。
なにかを一所懸命やり、それを励まし支える周りがあるという人間関係って素晴らしい。
なぜなら、それらは成功やツキのための宝庫である潜在意識が、その人に気づきを与えるための試練として現しているのであるから、顕れれば必ず消すことができるのであるということに他ならず、有難うと感謝すればツキが巡ってくるというのです。
そう思えるようになるための入り口というのがどこにあるのかというと、身の回りを綺麗にしていないと見つけられないのだと昔の人はいいます。
ご先祖様が教えてくれているのだという人もいるが、実際にどうやって教わるのかと聞くと、
感謝の気持ちを現そうとおもったときどうするのか、と考えて見れば良いのだと・・・
それは、社会生活のどんな場所にいても同じだということです。
よ~く考えよう お金は大事だよ
よ~く考えなくてもそうなんで、大事にしてるんだけど・・・
一円玉のデザインはオガタマの木なんだとか。
神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なんだそうです。
アマノイワトの前で裸踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。
モクレン科のこの木を初めて知ったのは、むかし参拝に行った熊野速玉大社の境内で、神主さんに聞いたのが最初。
次には、高千穂神社だったように思います。方々にあるらしいんですが、目にする機会が少ないようです。
お金はなにをやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようです。
沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。
貯めこむことだけが目的となってしまっては、そこによどみができてしまい、それではお掃除の対象となってしまいます。
こつこつと、しかし大きく貯めて大きく使うことは、神様の意に叶うことなのだと思います。
ちっちゃな入り口だし、そこを登る人は、すこし体を斜めにして花をよけて通らねばならないでしょうが、多分腹を立てながらそこを通る人はいないんじゃなかろうか。
花の名前はわかりませんでしたが、小さな花をたくさんつけた草花の鉢植えでした。
花の名前と言えば、最近は洋名の花が多くなっていて綺麗だと思って見ても、馴染み難い。
「アメリカ石楠花」という和名がついていて、通りすがりに足をとめました。カルミアなんていう名だと、なかなか覚えてられないから、これはいい。

そんなわけで、新しいお家ができると、そこへ早く着いた神様から順番に良いお部屋を陣取ってしまうため、福の神様が行き着いた頃にはもうトイレしか残っていないんだといいます。
だからそこに居つくことになるわけですが、其処を綺麗にすることにいつも気を配ってくれると、福の神様としては気分がいい。
「愛い奴じゃ。」ってことになって、袋からいろんなものを取り出したくなるのは蓋し当然といえば当然のことに相成るわけでございます。
社業上のお得意さんとして以前お世話になりました、「銀座まるかん」の齋藤一人社長のお話です。
心がけと雑巾掛けは、ひじょ~にたいせつなのであります。
トイレをきれいにしましょうネ。
それも、トイレのお掃除をやるようになってから運があがったという内容になっていることが多いようです。
昔は、会社に就職するとまず一番最初にしなければならないのがお掃除でした。「掃除もろくにできなくて、まともな仕事ができるわけがない。」と、言われたものです。特にトイレは、舐めてもいいくらい綺麗にするように言われました。
いまは、*お掃除のきわめつけは、墓石クリーニングだという人もいます。
二千五百年ほど昔、お釈迦様の弟子にシュリハンドク(周梨槃特)という人がいました。物覚えが悪くて、朝聞いたことを夕方には忘れているというどころか、自分の名前すら覚えられないというひどさで、背中に自分の名前を書いてもらって、人から名前を聞かれるとそれを見せるというほどでした。
人からいつも馬鹿にされる自分が情けなく、たまらなくなってお釈迦様に相談しました。
お釈迦様は「何も心配しなくていいよ。」と言って、1本の箒を彼に渡して「一所懸命、ただお掃除だけを続けなさい。」と教えたのだそうです。
シュリハンドクは、それから何年にもわたり来る日もくる日もただひたすらお掃除だけを繰り返しました。
ある日のこと、いつものようにお掃除をしていると、「随分綺麗になったね。」とお釈迦様が声をかけました。「でも、まだ綺麗になっていないところが残ってるよ。」と仰ったのだそうです。
「どこなのだろう?」と思いながら、更に掃除を数年続けたある日、はたと気がついたのだそうです。「そうか、汚れていたのは自分の心だったのか。」悟りの瞬間です。
眠ったらそのまま起きないんじゃないかと心配するくらい、年寄りのくせして遅起きの爺さんたちと違い、早起きの私はお賽銭をあげてお参りしてきました。
バスの窓からこの神社が見えたので、「今朝、皆さんを代表してお参りしてきました。」というと、「なに、この神社ガラスで囲われているの?」と一人が聞いてきた。
するとすぐ別の爺さんが「早起きして賽銭をとりにくるのがいるから、用心して囲ってあるんだよ。」なんて減らず口を叩く。失礼な!
聞いてみたらこの爺さん、子供のときにやったことがあるらしい。ここな罰当たりめが!
新月のときにはお願い事をすると叶うと申しますから、ぜひそうしましょう。今日がその新月ですぜ。さっき一緒に書いてしまえばよかったね。ま、世界人類が平和でありますようにと願うわけでおじゃる。
八木節に歌われる、はちじゅばあさんまめかむように ぽつりぽつりと かたりにかかるがオオイサネどころの騒ぎじゃなく、ま~元気であること。
飲むわ食べるわ喋るわ・・・
酒が進むほどに、朝鮮人参だのバイアグラだのの話しに進んだわけでございます。
Oじいさん「おれは、心臓に問題があるからバイアグラは駄目だけど、そんなのなくたって顔にかかるくらいだから大丈夫なの。」
Bじいさんが「あんたもずいぶん嘘が旨くなったね。」と返す。
そんな心配はまったくないと思えるYさんがエイズの心配をしたりと、減らず口のオンパレードで、私がとても敵う相手ではございませんでした。
今の時期だと、すみれの花を砂糖漬けにして食すとなかなか風情がある。
なに、そんなの食えるのかって?食べられます。なかなかロマンチックです。
もう盛りをすぎちゃったけれどタンポポのお浸しも、ちょっと苦いけどうまい。
「芽ぐむ」。芽吹くとほとんど同じように使われますが、芽を吹く前の少し膨らんできた状態をいうように思います。
好きな日本語の一つです。
「ぐむ」は名詞に付いて動詞をつくり、そのものが現れはじめる意を表す。
「涙ぐむ」「芽ぐむ」などです。
里ではもう花が咲き終わった木々が多いですが、雪がようやく消えた山ではこれからです。
冬の厳しい寒さにじっと耐えていた木々の幹が、血が通い始めたように生き生きした輝きを加え、枝先に花芽が芽ぐんできている子の時季は、心躍ります。
「それって、董のたったおばさんたちの話し?」と聞くと、そうだといふ。
蕗の薹は八百屋が売ってるもんなんだそうです。そんなこと言ったら、蕗だって八百屋で売られてるじゃん。
むかしながらの やまざくらかな。しきしまのくにも、あやふし。
北海道も桜が咲いたとのこと。ライラックもこの時季でしょうか?
藤の紫も鮮やかです。多分、桐の花も紫にさいていることでありましょう。
なんですと?シランですと?甘藍をなんだかシランといふひとは多いけど・・・
甘藍とはキャベツの和名です。