は、現実的にはかなり難しくなってきているのではなかろうか。
教育というのは恐ろしい。国をあげて反日教育をされていたら、いかに日本が平和を望んでも、どうなるかわからない。
外に敵をつくるのは、えてして内政に問題があることが多い。
銀行が次々に倒産したり、地方に反政府運動に結びつきかねないデモが頻発したりすれば、その問題から手っ取り早く目をそらせるのには有効だからだ。
その教育に使われるのが事実を歪曲したり極端な事例をピックアップしたものになるのは、当然の流れになる。自国に都合が悪いことは伏せるに決まっている。
しかし、その都合が悪いことであっても自由公平に議論する場を残しておかないと、事実は歪み先の発展を阻害する。
我が国では、過度とも思える自虐史観がいきわたりすぎたのか、学校やマスコミが言うことに、そんなわけはないだろうと思う若者が増えて、自分で調べるようになってきているのだと思う。
行き過ぎればそうなる。調べてみればすぐに、事実は明らかになって浮かび上がる。
理不尽だと思うことから脱却するために、極端な例では核ミサイルを装備すべきだという人さえ増えてきてしまっているように思える。
逆に、一昔前なら外患罪に抵触しそうな言動をする人がいても、それが咎められずに済んでいる自由が残されているところが、我が国の懐の広さであろう。
国益の鬩ぎ合う外交の場にあっても、平和裏に解決されるに越したことはないが、何時の場合でも芯のところに覚悟というのは必要なのだと思う。
数学者や物理学者は、理解できるのだと聞くが、一般人である我々にはなかなか解らない。
3次元を切ると2次元が現れる。2次元を切ると1次元が現れるから、切ると3次元が現れる空間ということなのだろうか?
よく、3次元に時間軸を加えたものが4次元であるというのを聞くが、時空間の過去現在未来が自由になるということなのか?
時空間以外の4次元というのだってありそう。
ひとつ上の次元に行くことができれば、解決できることが沢山ありそうです。
TVなどに出てきてシタリガオで意見を述べるキャスターやコメンテーターを見て違和感を覚えたら、まずそういう意味なのだとすると判りやすい。
「議論が尽くされていない」とは
自分たちに都合のよい結論が出ていないということであり
「合意が得られていない」とは
自分たちの好む通りの意見が採用されていないということであり
「異論が噴出している」とは
自分たちが反対しているのだということであり
「皆さんには、もっと真剣に考えて欲しい」とは
アンケート等で自分達に不利な結果が出てしまって心外という意味である、と置き換えてみると非常に分かり易い。
報道には、事実を正確に伝えるという姿勢を主にするべきで、自分のいうことやその扱う媒体が正義であるかのような誘導は避けるべきだと思う。
埼玉県の入間と日高の間くらいに富士山というのがあります。
1年以上山に登っていなくて、有酸素運動も怠っていて体が鈍ってきているので、勇気を出してでかけました。
222メートルほどの山頂から、埼玉県に5つしかないという三角点がある物見山へと縦走し、
そこから更に日和田山に回って巾着田に降りるコースを5時間ほどかけて歩きました。
久しぶりの山歩きなので、足腰は悲鳴を上げていましたが、巾着田のマンジュシャゲを見ずに帰るというわけにはいかないので、さらに1時間ほど花を見てまわりました。
頑張って世の為人のためになろうとする思いをそれぞれが持っていた。
庇いあい助け合い、我がことのみでなくまわりを思いやることがたくまずしてでき、芯に優しさがあった。
苛めはあったが、陰湿なものはなかったし、先生や大人に力があった。先生に力がなくなってしまったのは、どうしてなのだろう?
子供の権利ばかりが主張されすぎていないだろうか。
戦後、否定したのか無視したのか目を逸らしてしまったのか知らぬが、永く培われてきた精神的文化が、歴史の中からいつの間にか損なわれてしまったように思える。
学校教育のなせるわざなのだろうか?
昨年2週間ほどかけて、留学先から帰国することになった倅がお世話になったところを訪ねて廻ったが、行く先々の知人や、生活の必要上できた八百屋・肉屋・花屋・チョコレート屋さんなどなど、いかに日本人である息子が信頼関係を持って大事にされていたかがわかった。
彼が言うのに、「あの人はいい人だから会うといいよ。」と現地友人から紹介された相手は、実に日本人的な発想をする人たちばかりだったという。
彼らが認めるいい人というのがそうだったのだと。
そうして交流が広がった。基本的に、日本人は外国人に好かれている。なぜなら、礼儀正しくまともだからです。
私は、公を伴わない権利主張や、言い負かす技術としか思えないディベートや、最近目にすることが多い責任逃れは好きではない。
騒いだ者勝ちということが多過ぎないだろうか?
経済的効率のみを追い求めれば、職人技や文化などが育たないとも思っている。損得が判断のための第一順位では悲しすぎる。
地道な努力研鑽が、日本国を培って今日に続いているのではないのか。
私は、厳しい実業の世界でこれまでやってきたけれど、いつでも花一輪を心に秘め、それを忘れないように努めててきた。
確かに同じことを何度も聞かされるのや、知っていることを教えてもらっても、煩わしいことであることは事実であろう。
でも、これをいつも言っている人のところには、段々に情報が入って来ないようになる。
「もう話したことがあるかも知れない」「どうせこんなことは知っているだろうから」と、周りの人は思うようになるからです。
そうしているうちに、大事なことも知らされなくなってしまう。
そうなったときに言うのが「それ聞いてない。」とか「なんで報告しないんだ。」という言葉。
そんなことはないのです。自分が聞こうとしなかったのです。
何度聞いても、少しずつその話に関連する情報はつけくわわりもあって詳しくなるのだから、疎かにしないということが大切です。
もうひとつ大事なことがある。
年寄りが何度も同じ話をしてくるのを「それは前に聞いた。」「何度も聞いた。」というように対応していると、段々話しかけてくることが減って行き、話をすることがなくなって黙り込んでしまうようになる。
それがボケにも繋がってしまうという。
面倒くさがらず聞いてあげるのも大事なことのようです。
ピアノリサイタルの案内が届きました。毎年秋の恒例となっている催しです。
私の友人知人も楽しみにしていてくれるので、今年も出かけます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ピアノリサイタルのお誘い
皆様には毎度、格別のお引き立てを賜り、誠にありがとうございます。
さて、本年秋のピアノリサイタルのチラシが出来ましたので、
ここにご案内させていただきます。
難しいことは抜きで、十分に愉しめるステージをお届け
しようと考えておりますので、
是非、お誘い合わせのうえお出かけ下さいませ。
ご好評につき、今回もお話つきのピアノ演奏を企画しました。
また開場が笑いに包まれたら、きっと心もほぐれ、
リラックスしてピアノの世界に浸っていただけるのでは、
と思います。
そしていつまでもピアノの音色、
その余韻が、皆様のこころのどこかで響いていたら・・・
こんなに嬉しいことはありません。
皆様のご来場をお待ち申しております。
竹内 英仁
チケットのお申し込みは下記によりFAXまたは電話 E-mailにて承ります。
FAX 03 5393 6627
E-mail a2hide@wb4.so-net.ne.jp
TEL 03 5393 7821
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
竹内英仁 ピアノリサイタル
ちょっと物知りになれるコンサート
2012年10月19日(金曜日)
18:30開場 19:00開演
銀座王子ホール 全席自由 4,000円
いつも目にしている世界地図を、引っ繰り返して逆から見てみると、気づくことがある。
中国には、外洋に出るルートがないのである。
尖閣諸島は、資源が豊富だから争いのもとになっているように言われているが、その資源の開発には膨大な資金が必要であろうことは想像に難くないから、今すぐには開発できない。
しかし地政学的にシーレーンの確保ということで見ると、重大な意味を持っているのが解る。
だから我々には常識外とも思える南沙諸島までも囲い込もうとするのではないだろうか。
日本は、ABCDラインにより封鎖されて開戦のやむなきに至ったという側面をもっている。
そのことから、海への出口を何としてでも確保したいのかも知れない。
他人の物を欲しがらなくったって、平和的ならいくらでも方法があるのに、そうしないのは何故なんだろうね?
「こんな厭なことがあったのだから、もっといいことが起こるに違いない。」というふうに思い方を転換すると、気持ちが軽くなって、後々がうまくいくようになる。
何故なら、人間の精神は軽やかであることがそもそも馴染むエネルギー体なのだから。
気分が滅入ることをいつまでも意識していると、それは潜在意識にマイナスイメージのプログラむが刷り込まれてしまい、ろくな結果に結びつかない。
いらないものは早く捨てて軽くならないと、浮かび上がれない。
いらないものは重いのです。
なんとなくうまくいかない。気持ちも滅入る。イラダツ・恨みに思う・幸せに思えない。
これらは、マイナスイメージを自らが自分の中にプログラミングした結果だという。
意識してマイナスイメージを自分に取り込むなどということは滅多になくて、無意識のうちにやってしまう。
これが現生のことだけではなくて過去世でやったことをまとめて業とかカルマということらしいが、自分の前に現象として現れればそれは時機を得て消えるものなのだという。
「現れれば必ず消え去る」とはいえ、なかなかそう思えなくて、新たに掴み直してしまうから、いつまで経っても消えないということになる。
目の前に起こったいやなことを「感謝し許して」放念するのがよいのだとか。
何故なら、生身のエネルギーが一番強いからなのだとか。
無意識下にあるものに気づくことは難しい。
無心になって墓石クリーニングをやっていると、それらのマイナスイメージがふわっと浮き上がってきて気づくことが多いとききます。
現れたものを意識として捉えられれば、放すことも可能になる。
見ている自分も見えないから、誰が見ているものなのかもわからなくなります。
そのうちに小鳥の囀りや吹き抜ける風とも一体化してしまいます。
そんな状態で意識を解放してしばらくすると、全てのものは今ここにあるのだと思えるようになるから不思議です。
そのうちに、アクセスする方法も解るかも知れません。
かの国においても、この技術を継承する人が少ないのだそうです。
ピアノに集中するのに役立つということで、練習前に刺すようになり、留学中にチェコの人間国宝みたいな先生について身に着けた技術は、お免状を頂くまでになった。
この繊細さは、ピアノ演奏にも表れて彼の弾くピアニッシモは絶妙である。


来る10月19日(金)に、銀座王子ホールでピアノリサイタルが催される。
今から楽しみである。
http://www.hito-takeuchi.com/
結構偏ったことをいう人みたいだった。
それとは別だが、二の舞を踏むなんてことをいう人もいる。
二の舞は演ずるであり、踏むのは二の足なんじゃないのか?
得点を取るというのも気になる。得点するというか、点を取るというかすることが正しい日本語なのではないだろうか。
一位の木とも呼ばれ、聖徳太子が手に持つシャクの材料でもある。
あららぎ派というのは、歌では重要です。
アララギの実が熟れるのは、初秋のこの時季だったんですね。すっかり忘れていました。
今年は暑すぎて、まだ赤い実がついたのを見かけない。
あまくって、ちょっとヌルッとして、結構おいしかったように記憶しますが、芯にある黒く硬い種が毒であるとはしりませんでした。
もろもろのまがごと つみけがれを 祓いたまえ浄めたまえ・・・
というのは神道の祝詞ではございますが、仏様だって同じこと。来世のことではありませぬ。
およそ、人智を超えた偉大な世界があることに一顧だにしない人はいないかと思いますが、目に見えないとか証明できないとか限られた知識の範囲で無いと決め付けてしまい、本来は無限の可能性を持っているかもしれない自らの世界を、自ら狭めてしまっていることって多いのではないでしょうか。
そういう「何か偉大なもの」への接点は清浄であることだと、修行を積んだり天啓を得たり或いは生活のなかでの経験で気づいた人たちが言ったり書いたりしたものは、かなりあるのでしょうが、幸せを求めはしても、そこに考えを至らせることは少ないようです。
多分ですが、今回心を込めてご先祖さまと向き合った時間のなかで、自分の中に流れ込んできている何らかの意識は、今は気づいていなくても、これから広がりをもつのではないかと思います。皆さんそうおっしゃいますから・・・
蚊に生き血を吸われながら、さりとて殺生もならずという仕事をされたら、蚊帳の外がいかなるものかと感じられたと思いますが、「私一人が蚊帳の外」というのと違って、本来は茅の外、即ち結界の外というところからきているのだとおもうのです。
外どころか、結界のなかにいたのだと思われてなりません。
直接的にその会の趣旨とはちがうのだけれど、関連があってある高校の校長先生がマイクをもって話しをされた。
いくつかのことを話題にしたのだけれど、内容はさして覚えていません。
気になったのは、話をしている間ずっと身体をぐにゃぐにゃ曲げ動かし、きちんと立っていることができなかったこと。
教育は、知識の追体験を効率よくさせることも大事だが、思いのたけを伝えることがもっと大事だというようなことをいっていました。
そうあって欲しいけれど、仕種から見てその覚悟があるのかどうか迫力にかけていて、言うことと実態とはかけ離れているように思えました。
イジメについても、それに到るに事情があるようなことも言っておられましたが、何をやるんだって事情や理由、あるいは言い分があるに決まっている。
だけど事情や理由があれば何をやっても許されるわけはないのであって、超えてはならないノリというものが人にはあるのだから、悪いものは悪いと単純化せずばなるまい。
変に物分りがいいようなことを言うと、解決するのが難しくなるんじゃなかろうか。
自分の旗幟を明らかにすることに、皆がもっと勇気を出さねばなるまい。
あと、いきざま、いきざまと何回も繰り返すのがたいそう気になりました。いきよう・しにざま、というのがもともとの日本語。「ざま」というのは、「ざまを見ろ!」という使い方に代表されるように、決して美しい表現ではありません。教育者であるなら、努めてきれいな言葉をつかいましょうネ。
うちの家内は、生き方というのが良いのではというけれど・・・。
スズシロ(大根)も、胡の瓜(キュウリ)も、人参も、ジャガイモもスイスイとラセン状に切ることができます。
当家のはステンレス製ですが、さてそれをどこで購うことができるかということになると、ちと難しゅうございます。当家のは、プラハで買いました。
使い勝手は少し違うと思いますが(切れ味、値段が)、似たようなものがネット上にありました。
使ったら大根ではなくて息が切れるかもしれませんが、どんなものかは想像できるかと思います。
御用とお急ぎでない方は、下記のページを見ると参考になるかも知れません。
彼のピアノは、ピアノの音とはこうだったのかと、思わず心をゆさぶられてしまいます。。
ショパンの曲はショパンらしく、ベートーヴェンの曲はベートーヴェンらしく弾き分けられて、特にピアニッシモのパートには、呼吸も忘れて魅きこまれてしまいます。
ザルツブルグとプラハで15年を過ごした彼が、日本で年1回秋のリサイタルを催すようになって10年を越えました。
王子ホールでの開催は、今年で連続5回目となります。
自分がいいと信ずるものは、人にも奨めたい。
昨年好評だった「ちょっと物知りになれるコンサート」の第2弾であり、今から楽しみです。
今年のリサイタルは、10月19日金曜日に銀座王子ホールにて催されます。
詳細は、ページを開いて左側にあるコンサートのボタンをクリックすると見られます。