それほど大きくはない鉢に植えたオリーブの木に実がついて、もうすぐ黒く熟れてきそうです。
オリーブは、実を積み重ねて錘をかけるだけで油が採れるのだとか。
オイルの語源はオリーブなのだとか。
オリーブオイルは、体によい。
オリーブの実を結ばせるのには、1株ではダメなのだと聞き、違う株を近くに植えました。
鉢植えでも、葉の緑、小さな花、段々育ってゆく姿などなど、日々楽しみが見いだせます。
植物を育てるのは、木にしろ花にしろ小さなプランターや鉢でもできるから嬉しい。
そもそもが雑草の逞しさを持っている筈が、今年の夏の暑さには対応しきれないのか、水やりがかかせませんでした。
それでも、小さな鉢では育ちざかりにかわいそうなので、プランターに移し替えてやったところ、ランナーを伸ばして立派に繁ってきました。
来年の春には、いっぱい四葉が見られそうで、今から楽しみです。

小さなことでも貯まれば簡単にはできなくなる。
仕事がたまって、どこから手を着けてよいか途方にくれてしまうようなときは、まず簡単にできる小さなことを片付けることから始めるのが鉄則です。
一つが済めば、後は糸玉がほぐれるように解決してゆく。
日々の気づきというのは、そういう意味でも疎かにしてはならないのだと思います。
ちっちゃな気づきに、実は重大な意味があることに気づかなければならないのかも。
そんな馬鹿な、と一笑に付して見過ごしてしまっていることに意味があるとしたら、それによって失ってしまっている機会が有りうる。気づきというのは、ちょっとした取るに足りないと思えることであったり、やってみるのに意味が見いだせないと思えることであるが多い。
多分神様?は、ちっちゃなことでも素直にやるかどうかを最初に試してみて、次の段階に進めていいかどうかを判断するように思えてならない。
神様に信じて貰えれば、次からは飛躍的になる。
自分が知り得ている表層的な知識の奥に存在する大いなる意味に、意識を向けてみることが大切なのではなかろうか。
車の往来が激しい道を横切ろうとしたのだろうか。
通りすがりのおばちゃんが、道の真ん中から歩道まで移動させ、大きなビニール袋に入れて、傍に付き添っていました。
保健所の人が来るまでそうしているのだと言って、寒い風が吹く中にじっと立っていました。
きっと気持ちの優しい人なのだろうと思いました。
その方がいうのに、道の向こう側に子狸らしいのがときどき顔を出すので、来ちゃだめよ来ちゃだめよと声をかけているのだと。
丸々太っているからどこかで餌を貰っているのかしらと言っていたが、都会に馴染み過ぎたのかもしれません。
病院に行って「どうしましたか?」と聞くから「風邪をひいたらしい。」というと、「それを診断するのは医者だ。」と不機嫌そうに言うのがいる。
そうかと思うと「病気を治すのは医者ではなくて自分なんですよ。」などと言うのもいる。
「自分で治せないから医者に来たんだ。」というと、バツのわるそうな顔をする。
こんなのに限って「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。」などと言う。
いい医者っていうのは、前に座っただけでもう治ったような気にさせる雰囲気をもっている。
下北沢駅の西口を出て坂を少し下ったところにある小田急線の踏み切り近くに、お地蔵様が祀られています。
家内の祖父が彫ったという石仏です。
この踏み切りは事故が多く、多くの人がなくなったのだといいます。
事故が起こらないようにとの思いを込めて建てられたというのですが、建立以来この踏み切りでの事故は、不思議にピタリとなくなったのだと、古くから地元に住んでいる方はいいます。
しばらく見ないうちにすっかり汚れてしまい、外柵もコケに覆われてしまっていました。
急に寒くなってきたこともあり、家内がマフラーを編んで昨日訪れ、首に巻いてあげました。
知る人ぞ知る霊験あらたかな地蔵尊です。

花は、可能な限り絶やさないで飾るようにしています。
なんとなく、心が豊かでいられるように思うのです。
鏡の前に白い百合を飾ったら、写りこんだものと重なって二つに見えて豪華です。
特有の甘い香りが部屋に満ちて、幸せな気持ちに誘われます。