旅も登山も風景や花があって、幸せを感じます。豊かな気持ちになれます。

必ず叶ってしまう言葉
願い事というのは、なかなか叶わないのが通り相場となっていますが、必ずすぐに叶ってしまう言葉というのがあります。
それは、「ああ、もう俺は駄目だ。」という言葉。
自分が自分の神様に宣言するのですから、これは覿面に聞き届けられてしまいます。
口が裂けても、言ってはならない言葉ということになります。

そうしてみると、口に出して宣言すると良い言葉というのがありそうです。

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自分だけでは
どの世界であっても、一廉の成功を収めた人たちの言う言葉には、「お世話になりました。」と「ありがとう」が共通してあるようです。

自分の努力が基本にはあるけれど、周りに協力してくれる人があることに感謝しています。

「余計なお世話だ。」とか、「他人の世話にはならない。」等ということは、滅多に言いません。
何かをしてもらった時には、素直に「ありがとう」と口にします。

こんな些細なことでも喜んでくれるのだから、もっと何かしてあげようと思う人が沢山集まってきます。
自分の努力以上のことができても不思議ありません。
明るい輪が広がるのです。

自我を主張することが悪いことばかりとは言いませんが、明るい人間関係を作るほうが楽しいし、周りをも快くするのだと思います。

初詣に行って神様にお願いごとをするときだって、同じようにするのが良いと思います。
叶えられたことが少しだけであっても、感謝の言葉を口にしてみるということです。

ヒラメキの出所
 物事が何事もうまく運んでいるときは、それが当たり前だとして意識することもないが、そういう時というのは、神様(ほかの言葉があれば、その言葉)が、「それでいいのだ」と後押ししてくれているとき。

 しかし、一旦躓いて困難に立ち至ったり、逆によりもっと多くを望むときには、何かに祈るということになる。
 自分の内なる神ともいうべき潜在意識は、願い事を叶えさせる「気づき」を「ひらめき」という微かなエネルギーとして意識に知らせてくるようであるが、気をつけていないと見過ごしてしまうことが多い。

 願い事は、潜在意識に届きさえすれば必ず叶うものらしい。
 ただ、困難のさなかにいるときに絶対言ってはならない言葉があります。
 それは、「もう駄目だ。」という言葉。
そう口にすると、その願いだけはすぐ、確実に叶ってしまうからです。


衰弱とは違い垂迹
 漢字で書くと垂迹。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんていうことを社会科だか歴史かで習ったと思うけど、忘れてしまった人が多いでしょうから、辞書を引いて調べて下さいネ。
 ニュアンスは違うけど、化身みたいなもんです。

 牛頭・馬頭(ごず・めず)大王がでてくるとはおもわなかったけれど、熊野の誓詞を交わすっていうのは、信長さんの頃まではよく聞きます。
どうして熊野にしかないのかってことについて、昔小耳に挟んだことを思い出しました。
神様を介して固い約束事をしたのに、それを反故にしたら罰があたるからと恐れたなどということではではなくて、それを強制させる見えない組織があり、約束を破るとどこまでも追い詰めて制裁したんだというから、その強制力を恐れてのことであったとか。

ほんとかどうか知りませんが、むかしにはそうであったかも・・・。

そういうことがあったかどうかは別にしても、自らを律するということについて人は、約束を守るというのを自然に身につけたのではないだろうか。
「お天道様に恥ずかしくないように・・・」これって、古いと言い捨ててしまっていいのかどうか・・・


紺屋の白袴などと言っていないで
大学を卒業してから長きにわたり、ビルのメンテナンスの業務に携わりました。
お客様のおトイレの清掃はやっても自社のおトイレの清掃は、(お金にならないというせいばかりではありませんが)どうしても後回しになります。

 そこで社長の私が、毎日というわけにはいきませんが、お掃除をすることにしています。
しばらくの期間続けているうちに、庭に咲いていたからとか、歩いてくる途中の土手に咲いていたからとか言って、パートのオバチャンが花を摘んできて小さな空き瓶に飾ってくれるようになりました。

 そのように、触発されて動いてくれる人が増えていくことも嬉しいことではありますが、どういうわけかトイレ清掃をしているときにいろいろなアイデアが浮かんだり気づくことが多かったりするので結構気に入ってしまって、「ここは私がお掃除するから、誰も手をださなくっていいよ。」なんてことにしてしまっています。

 本音を言えば、たまには誰かがやってくれるといいなと思うこともありますが・・・。

 厠のお掃除をすることだけで悟りをひらいた仏弟子が居たということでありますから、そのうちに私もその境地に届くかもしれません。
 清掃は、気づきの宝庫です。


胡桃(くるみ)の名の由来
 中華の西域を胡と呼び、胡の瓜だから胡瓜(きゅうり)と言ったというのは何かで前に触れました。

今回は、胡の桃と書くクルミ。
しかしこの桃、孫悟空が天界を荒らしたときに食べたという長寿の桃や、おばあさんが川へ洗濯に行ったときドンブラコと流れてきたのを拾い上げたという桃のように果肉を食べるのではありません。

梅でいうところの天神さま、核をたべます。
どうしてこれが桃なのか納得しがたいのですが、旨いことにはnut食うしているのであります。


迷信なのかどうか
先人の生活の智恵ともいうべきことがらを、科学的な説明がないからといって迷信ときめつけてしまってよいのかどうか。

例えば、庭や屋敷内に植えてはならないとされる木があります。

敢えて名前はあげませんが・・・
その木は湿気を呼ぶものであったり、大量の落ち葉が屋根に積もってしまう種類のものであったりします。

湿気は家人の病気を呼ぶ原因となろうし、落ち葉は屋根を傷める元となります。これこれだからとの前置きをすればよいものを、昔の人はそんな説明をしていません。


四神相応の地というのがあります。神社仏閣や城などは、建てるときそういう場所を選びました。
北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎というのだが、「そんなことをいったって。」となんのことだかわからないから拒否反応をおこすのが最近の若者。

北が小高い丘や山で、南が開けた平や湖ということになれば、日当たりが良くて水はけも良いにきまっている。西に広いみちがあって東に川があれば、住むためにこんなよいところはない。

だからそういうところに建てた昔の建物は、今も尚しっかり残っているということになります。
水浸しになって酷い目に会うようなところは、最初から避けたということになるのです。

それと別にも、何だかわからないけれど人智を超えて働く偉大な力があることを、誰もが感じているに違いないのだけれど、気づかないふりをしたり無視していたりするが、畏まって謙虚になることができるのも人間の美徳のひとつであると思うのです。

巳は上につく
来年は、巳年です。
ところで、非常によく似た文字に「己」「己」「已」があります。
読み分け方を、高校時代の漢文の時間に教わりました。

巳(み)は上に、己(おのれ)己(つちのと)下に付き、半ば開ければ已(すでに)已(や)む已(のみ)

こんな風にして覚えた漢字というのが他にもあったように思います。

戀、恋の旧字体。いとしいとしという心・・・等


無尽蔵に近いエネルギー資源が
日本の技術だということで、聞いただけで元気と勇気が出ました。

原発に伴う放射能の危険や、石油石炭などの化石燃料の資源枯渇を心配しないでも、海水中に含まれる1800兆トンともいわれるほぼ無尽蔵な物質マグネシウムを、エネルギーとして使うことが可能なのだという論を知りました。

「マグネシウム・エネルギー社会の到来」という、東京工業大学大学院の「矢部 隆教授」の提唱が、本田財団レポートがあります。
http://www.hondafoundation.jp/library/pdfs/No.126.pdf#search='%E7%9F%A2%E9%83%A8%E5%AD%9D'

火力発電所の設備を転用できるし、電気自動車はマグネシウムのブロックを購入して積み込めば
動かすことができるようになるというからスゴイ。
こういうことを、国を挙げて取り組むことができたら、日本といわず世界の未来は明るいものになると思うのです。

語彙力をつけないと勿体ない
 美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。
 言葉を磨くということも、大切なことです。
思考は、言葉を通じてなされますし、思考は潜在意識に刻まれて実体化するといわれているからです。
 そうだとすると、望みを叶える前には、もう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。

最近の若い人の話を聞いていると、すげ~、おいし~い、かわい~い、~なんだし~ なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてこないことが多いようです。
若い人たちの感性は優れているのだから、表現力を磨かないと勿体無いと思うのです。もっと国語を勉強しましょうネ。

なかには、モロ哲学っぽい議論をしているむきもあって、聞いていて感心することもありますが、言葉遊びに留まってしまっては、これもまた勿体無いこと。
誰も見ていなくても、身につけたことが実社会で世の為になるというのは素晴らしいことなんだと思うのです。

言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないでしょうか。
乱れが続けばそれが定着してしまいます。言葉は一種の波動ですから、玄妙なところで精神や肉体に影響を及ぼすかも知れません。

美しい言葉は、幸せをも運んでくるでしょう。
人間は太古の昔から、音楽にしろ芸術にしろ、つまるところ美を求めてきたことは、それが幸せに結びつくことを願ってのことではないでしょうか。


気づくとき
悩みの大半は、まだ起ってもいないことを先回りしてくよくよするということが多いのだと言われます。
 普段からこころがけて、いざというときに備え用心しておくことは大切ですが、困難に当面してからでも真剣に努力すれば間に合うというのが殆どだとも言われます。
 神様は、人間が乗り越えられないような試練は、お与えにならないのだと。

 初めてお掃除をすることになったとき、掃き方も拭き方も下手で、そうかといって誰がやり方を教えてくれるでなく、只夢中でわけもわからず時間ばかりが過ぎていきました。しかもその割には結果が綺麗になっていたとはとてもいえなかったのです。

 段々慣れて、手際よく道具を使えるようになると、「ごみはなくなったけれど、床に汚れが残っている。」とか「隅々が綺麗になっていない。」とか「壁などの立体面の汚れが気になる。」とか、射し込んでくる光線に浮かんで見える埃が多いけれどなんとかならないものだろうか、とか次々に綺麗さの要求度合いが上がってくるのです。
 そして、やってもやってもすぐまた次には汚れてきて、いつ果てるともない繰り返しがあるのだという現実に気がつくのです。
 それを馬鹿らしいと思わず乗り越えていかねばならないのです。

 そんな中で無心にお掃除をやっていると、あるときなんの前触れもなくハッと気がつくことがあるのです。懸案事項の対処法であったり、悩んでいたことの解決方法であったり、人生の教訓であったりします。
 なんでもそうなのでしょうが、一心に努めることが大事です。
 これらの気づきが顕著に起るのが、前にちょっと触れたトイレの清掃をやっている時です。 


一円玉には
 一円を笑う者は、一円に泣く。「お金は大事にしなくてはいけません。」と習いました。

 よ~く考えよう お金は大事だよ
 よ~く考えなくてもその通りなので、大事にしてるんですけどネ・・・

一円玉のデザインはオガタマの木なんだといいます。
神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき、手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なんだそうです。
アマノイワトの前で裸踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。
モクレン科のこの木を初めて知ったのは、むかし参拝に行った熊野速玉大社の境内で、神主さんに聞いたのが最初です。
次には、高千穂神社だったように思います。方々にあるらしいんですが、目にする機会が少ないようです。

お金は、何をやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようです。
沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。
貯めこむことだけが目的となってしまっては、そこによどみができてしまい、それではお掃除の対象となってしまいます。
こつこつと、しかし大きく貯めて大きく使うことは、神様の意にというのか宇宙の意思にというのかに叶うことなのだと思います。


自分がそのまま
旅を続けた末、或る町に辿り着くと、町の入口に仙人のような格好の老人がいました。
旅を続けたきた若者が、その老人に尋ねました。
「この町は、どんな町ですか?」
すると老人が「ここに来る前の町は、どんなだったかね?」と尋ね返したのだとか。
「前の町は、皆意地悪で、自分勝手で、それは酷い町でした。」と若者が答えると、「この町も、それと全く同じじゃよ。」と、老人が言いました。

次にまた、旅の途中の若者がやった来て、同じ質問をしました。
「前の町は、皆親切で思いやり深く、住んでいてとても良い町でした。」と、答えると、老人は、「ここもそれと全く同じじゃよ。」と答えたのだそうです。

人は得てして、原因の一端が自分にあるのだとは考えないで、悪いのは全部周りの所為にしがちです。
「あいつは、どうも虫が好かない。嫌いだ。」と思って接すれば、相手も敏感にそれを察知して、それに輪をかけたような反応をします。
他人に親切な人は、周りの人も皆親切で優しいし、頼みごとだって聞いてくれることが多い。


人前に出たら
人前に出ないで済むことはありません。人のいるところには、言葉があります。
言葉は、思いを伝える手段として優れているのですが、使い方が最初から上手い人ばかりではありません。
自分の思っていることが、そのまま伝わるようになるまでには、誰もが人知れず悩み、考え、工夫して、自分に合った話し方を身に着けます。
「わかってくれてもいいのに」とか「お察し下され」とかいうのは、殆ど絶対にと言っていいくらい、相手に伝わることはないでしょう。
言葉は、大事なのです。

口下手だからというので、手紙にするのもあるでしょう。
確かに胸を打つ文章というのはあります。
しかし、口に出して言葉として伝えるとき、声の調子、スピード、声音、柔らかさ、真剣さの度合い、含まれる愛情や思いやり、伴う身振りや表情や相槌等々、文字に勝ることが多いのも事実です。

言葉は即ち神なりき。言葉の持つ波動エネルギーは、物質をも構成しているのかもしれないのです。

簡単な挨拶や感謝の言葉から始めると良いかもしれません。
「ありがとう」なんて良い響きでしょう。


よなぐもり
 ○晦と書くのだそうです。○(ヨナ)の字は雨冠に狸に似た字を書いてありましたが、指定漢字内になくて非表示となってしまいます。

 こんな字は初めて知りました。黄砂で煙ってる様子を表す言葉です。
風邪の予防のためか、今からもう花粉と黄砂を避けるためか、厳重にマスクで身を固めた人が多い。

 ヨナの字は音で読むと"バイ"なんだって。
はなぐもり 蒙古からくる つちぐもり・・・くもりにもいろいろあります。



猿が物を洗って食べるというけれど
 清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。
 心を洗うということもよくいわれますが、洗うということにはいろいろの意味があります。

 さて、食べ物を洗うということについてですが、体の中に入れるものは出るものとは違い、なんであれそもそもが綺麗なのではないでしょうか。
 それでも、洗って綺麗な方が美味しいことはちがいありません。

 宮崎県串間市の幸島(こうしま)の雌サルが、あるとき餌の芋を洗って食べることを覚えました。
泥や砂がついていないことは、さぞ口当たりがよかったことでしょうが、身内のサルを経由して島全体のサルに伝わりました。
それが100匹を越えるころになると、突然、海を隔てた大分県の高崎山の猿に伝播しました。猿のことですから、電話もTVも手紙もないのにです。

 この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。
 よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことであります。

 話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが、捨ててありました。
近所にある高等学校の生徒が、コンビニで買い求めて食した後、そのように道脇の塀の上に置き捨てして帰ったものです。
誰がそれを片付けることになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけです。

 一人一人のときにそんなことはしないのですが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でしてしまいます。
他人への慮りなどという人間の持つ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらないようです。「自分さえよければ」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。

 猿にも劣るこういう行為も、そうする人が増えて伝播したのだろうか?
 私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。義務セットなのだとまではいわないけれど、恥ずかしいことはしないに越したことはない。

 そんな子たちと話をしてみると、本当はいい子が多いのも事実。
ワルぶらないと仲間の付き合いができないという風潮を、どこで断ち切るかということになりそうです。

 声をかけ話をするなどの微力をつくしてはいるけれど、先は長い。


体の中の悪いもの
 身体の中の悪いものを出尽くさせるデトックスといわれることが言われるようになって久しい。
 食品であったり薬品であったり物理的に外からの作用に恃むものなど、数多くの方法があるが、いうなれば身体のお掃除ということだから、真剣にならざるを得ないようです。

 関連して、岩盤浴というのも一時はやりました。
熱せられた岩盤の上にバスタオルを1枚敷いて寝転んでいると、汗と一緒に老廃物が体内から排出されるということであるが、高温多湿な室内は、かびや雑菌も繁殖しやすいというので、その防除や除菌が喚起されました。

 サウナのあの刺すような暑さと違って鼻も乾かないし、楽に汗を搾ることができ、身体も温まる。銭湯の倍くらいの費用で利用できるところが方々に在るので、そんなに負担にならず気軽に行くことができます。
 使っている岩盤によって効能に多少違いがあるのかもしれませんが、前後にたっぷり良い水を飲んで、身体のなかを綺麗な水と入れ替えればなお良い。
健康は、内外のお掃除からということです。

体の具合が悪いことの原因に、体温が低いというのも言われます。
基礎体温があがることで、ちょっとした不調などは改善されるのだといわれますから、体を冷やさないようにすることが大事です。
今年は特に寒いから、気をつけましょう。

 健全な肉体に、健全な精神が宿る。
なんといっても心のケアなくしては、幸せに巡り会えないのかも・・・


タバコを買う時の不思議
20年間タバコを1本も吸わないでいたのだけれど、事情があってまた吸い始めました。
どんな事情かと言うと、悪い虫がつかないようにしなくてはならない事態がおこったからです。
オカルトっぽいはなしですが、悪霊はタバコが嫌いなのだそうです。

いつでも又やめられるとおもったのですが、これがなかなか難しい。

で、やめている間に、タバコ吸いの環境が著しく変わったことに驚きました。
やたら値段が高くなった。吸える場所が制限されて殆ど無いに等しくなった。などなど。

それより不思議なのは、コンビニなどでタバコを買う時、未成年ではないという確認ボタンを押せと言われることです。
本人が未成年ではないと本人がボタンを押すのでは、チェックになるまいにと思うのです。
子供が買ったって、店の人が許してしまうことだってありうる。
大人びて見える子もいるし、親のお使いで買いにくることだってあるし・・・


ツキのお話
 ツキと言っても、月のことではありません。
 今日はツイているとかツイていないとかいうときのツキです。

 自分をツイていないと嘆く人は、極端な言い方をすれば、酷な言い方かも知れませんが、つかなくなるようなことばかりしているのではないでしょうか。
 不平不満ばかり言っていて、気づきさえすれば、そこにツキの種があるのに、自分からは何もしないで、つかなくなるような考え方や生き方をしているのかも知れません。
 他人や世間や社会や政治のせいではないのにです。

 ツキは生き物。誰にでも気づきのチャンスやお知らせはあるのに、既成観念に捉われてしまっていて、頭で理屈付けをして素直にやらないから逃がしてしまっているのではないだろうかと思ってみるだけでも、流れが違ってきます。
 ツキの世界には、この次とか、後でということはないらしいのです。
 気づくという感性を磨かなくてはならないと思うのです。


午後は紅茶を楽しむ
妻がマドレーヌを焼きました。
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こんな時は、いい器でとっておきの紅茶を飲むということになります。
身の回りで使うものは、可能な限り本物を使う方が良い。
職人が心を込めて作った物には、エネルギーがこもっています。
そういうエネルギーは、周りまで浄化して、幸せな雰囲気で辺りを満たします。

普段は間に合わせのものでも仕方ないと思いますが、時には本物に触れることが大事です。良いものは、圧倒的な説得力があって、心を豊かにします。


引き寄せてしまったのは自分
不平不満愚痴を、平気で口にする人がいます。
口にする以上は、そう言いたくなる現象が結果として自分の上に起こったということでしょう。
因果律で言えば、結果と言うものは原因がなくては表れない。
酷な言い方ですが、全部自分が招いたのだということになります。
きっとどこかで、悪い想念を持ったのだということになります。
自分が覚えてもいない前世のことであったかもしれませんが、縁を得て現れたのです。
類は類を持って集まる。朱に交われば赤くなる。

原因となることは、それが良いことでも悪いことでも、潜在意識に刻み込まれます。
潜在意識に刻み込まれたことは、どんなことであっても実現に向かって動き出します。
もし、嫌なことが自分に起こったのであれば、「ああ、こうして自分に表れたのだから、これで消えるのだ。」と信じきるのです。
間違っても、その厭なことに捉われて、原因として掴み直してしまってはならないのです。
難しいことなのですが、許して解放するのです。
「こんな厭なことが起こったのだから、後にはきっと良いことが起こるに違いない。」という善念に切り替えると良いと思います。

では、良いことを想ったら、良い結果に結びつくのか?ということになるのですが、それは必ずそうなります。それが因果律の真理です。
良い結果がすぐ現れるときもあれば、なかなか現れないということもあります。
潜在意識は、時機を選ばないといいますから、やむを得ません。
ただ、原因のないところに結果はあらわれない、というのも事実なのです。


うまく行っている人の言うこと
 特に努力しているようでもないのに、傍からみていてツイている人というのは、「ありがとうございます。」とか「お陰さまで。」とかを自然に口にしています。

 口先だけの口癖ではなくて心から出ている言葉だから、まわりにも気持ちよく伝わるようです。そういえるようなことを実際にしているからなのかも知れません。

 聞いてみると、「自分の力だけなのではなくて何か大きな力に導かれているように感じているからなのです。」と仰います。
 それで、感謝の気持ちまでに、せめてものこと自分で墓石クリーニングをしようと思い立ってやってみたのだそうです。

「ツキを呼ぼうとかの気持ちが全然なかったとはいいませんが。」、と言っておられましたが、とにかく結果として目の前に形として現れた綺麗になった墓石を見たとき頭に浮かんだのが、「引き寄せる力」という言葉だったそうです。
 これに限らず、自分に合った何らかの言葉が閃くといいます。

 善は善をひきよせる。
 でも、なによりかにより綺麗になったという満足感は、なんとも言いようのないものだったと・・・


ブルーベリーの紅葉を飾って
ブルーベリーの葉が、真っ赤に紅葉しました。
今年も沢山の実が採れ、嬉しいことでした。
目に不安を抱える友人のために、ジャムにして送ったほか、多くの友人知人にお配りして喜ばれました。
連日の炎天下、大汗をかきかき、群れを成して襲来する蚊に刺されながら、収穫期を通したら100㎏近くは摘んだと思うけれど、自分たちの口に入ったのは殆どありません。
先日、収穫のお礼肥を木の根元にタップリ撒いて、来年も宜しくお願いしますと木々に声をかけました。

朝、雨に濡れた紅葉があまりに鮮やかだったので、枝を剪ってきてコップに挿し、周りに千切った葉を散らしてテーブルに飾りました。

それを見ながら紅茶を飲んでいます。
隣の部屋からは、ピアニストである息子が弾くショパンの「幻想ポロネーズ」が流れてきています。時間が穏やかに過ぎています。


「わや」になる
 親の意見とナスビの花は、千に一つも無駄がない。
そう昔はいいましたが、今どきそんな覚悟があって子にものが言えている親がどのくらいいるだろうか。
まさにナス(成す)というには覚悟がいるのです。

さくばんは、酔ったおじいさんが多少怪しげな呂律で面白い歌を口ずさんでおりました。聞いたこちらもかなりいい加減だから、あまり定かじゃないけれど・・・。

親が裁判官で子が泥棒   (おや~がさいばんかんで こがどろぼう~)
検事判事が叔父さんで   (けん~じはんじが おじさんで)
そこで弁護士が従兄弟なら (そこ~でべんごしが いとこなら)
何で裁きがつけられよう  (なんで さばきがつけられよー)

ホント、こんなんになっちゃったら、一体どうしたらよいものやら。


練馬の子狸
昨晩はとても寒くて、いつ雪に変わっても不思議ではない雨が降りしきっていました。
常夜灯と植え込みの境の暗がりを選んで、子狸が濡れながら急ぎ足で通り過ぎていきました。
この狸、丁度1か月ほど前に、車の往来が激しい2車線の道路を渡り損ねた親狸が、跳ねられて敢え無い最後を遂げた時、道の向こう側に居た子狸だと思われます。
通りがかった人たちが口々に、「危ないから、こっちに来ちゃ駄目よ。」と声をかけていた狸に違いない。
健気に生き延びていたのだと思うと、何とも言えずほっとしました。
練馬区とはいえ、一応都内。
どこに棲んで、何を食べているのだろう?
生きようとすれば生き延びることのできる環境がまだ残っていることに、安堵の胸を撫で下ろしました。


「も」と言ってるのだから
 久しぶりに会った人に、「君も太ったね。」と言われて、傷ついたなどと怒ってる人の記事を読みました。

 「は」じゃなくって「も」と言ってるのに、なんで怒るんだろね。
 「も」と言ってるからには同列なんだから、僕も太ったけれど君も太ったねっていう意味であって、君「は」太ったねってことじゃないんだから何を怒ることがあるんだろうということです。
 そんなことで怒るくらいなら太るな!「おかげさまで幸せ太りよ。」くらい言ってみた方が、精神衛生上も宜しいのではないかと思うのです。

 だ~いたいやね~、少しばかりのことに「傷ついた」っていう言い草がなじまない。
腹がたったとか面白くないとかいうんならわかるけどね。

 同じように、よくつかわれる「いやされる」っていうのも変じゃないか?
癒すっていうのは、そもそもが元の状態に戻るって意味なのだから。
原状復帰に止まるのではなく、もっと先の楽しい領域まで行くことを望んだらいいのに・・・。

 今年花落顔色改 明年花開復誰在 寄言全盛紅顔子 伊昔紅顔美少女 ?

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