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隠そうとしても現れてしまう歴史
ちょっと長いけれど、読んで頂けると、知らなかったことが判るようになるかも知れません。
学校で教えられた歴史とはかなり違う。

日本のように、遺跡や古文書が数多く残っていて、科学的にも学術的にも証拠立てた考古学的検証を基に確固たる歴史を持つ国に対し、韓国の学者が、日本は朝鮮が支配していたなどと、お花畑のような事実確認もままならない歴史を捏造し(資料がないので胡麻化し放題)主張しているのだという妄想に惑わされる必要は全くない。事実を検証できないで学者とは、笑止千万である。妄想は妄想でしかないということさえ分からないのでは、何ともなるまい。
彼らがその根拠としているのは、日本に朝鮮の地名が残っているからだとしているが、そんなのは当たり前である。朝鮮から日本に逃れて来た者たちが身を寄せ合って住んでいたからである。

面倒だとは思ったが、ざっと朝鮮の歴史を攫ってみた。捏造歴史を使って日本を貶めることに励んでいるより、事実を追求することが先ではないのか?
無知で、感情が納得すればそれで満足するような国民を増やしてどうするのか。
こんなくらいの歴史を調べることなら、韓国の学者にだって簡単にできそうなものだと思う。

朝鮮半島は、日本の縄文時代の頃は無人の地であったことは、地質学や気候学から見て明白なのだとされている。5000年の歴史なぞあるわけがない。
韓半島の南部には、日本に16000年前から住んでいた縄文人が渡って行って国を開いたのであり、中国の古文書にも、半島の南は倭の領土であったと明確に書かれている。
事実、日本特有の古墳が数多く起こされていることを見ても、彼らには反論できまい。

朝鮮が上から目線で、日本に文化を教えてやったのだなどと言い募っているが、日本に持ち込まれたそれらは、日本への「朝貢」関係上、献上されたものだと考えた方が説明がつく。
それ位、力関係に差があったとみる方が、説得力をもっているのである。

中国の『隋書』にも、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」という記述があり、朝貢関係があったことをうかがわせる。

広開土王碑も倭については「百殘■■新羅を破り以って臣民と為すと記しており、この「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。
(wikiより抜粋)

当時の中国と日本の歴史書に
【百済は日本の属国】と有るのだから、日本の統治下にあったのだろう。
更にいえば、百済には、日本人自体も沢山住んでいたのだとされている。
建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。
(wikiより抜粋)

高麗は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島を統一して、1392年まで続いた統一王朝である。都は開城。その王建は、中国人である。
元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶ。
西洋諸国の言語において朝鮮を表す「Korea」、「Coree」などの語源ともなった。

古朝鮮とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶ。

 まず、檀君朝鮮であるが、これは説話に出てくるだけのことで、ほとんど神話のようなお話であり、実在したかどうかはかなり怪しい。
檀君という神話上の人物が平壌城で建国したと韓国では教育され、この檀君が即位した年は、
BC2333年といわれていますが伝説の人物・国であるというとらえ方が、世界では一般的。。

 次に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、中国の殷の移民が建国したということになっています。(?~紀元前194年)これもまた、中国人である。
当時の半島には野蛮人しかいなかったから、いとも簡単に建国できたのだといわれている。

 そして、いよいよお待ちかね、実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(紀元前195年ごろ~紀元前108年)

 衛氏朝鮮は、中国の燕の出身、衛満(えいまん)によって建国された。しかし、この衛氏朝鮮も紀元前108年には、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。
紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると、朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。

 そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。
 中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた「高句麗」です。
満州族(女真族)だということになると、これもまた他民族ということになる。

 この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされた。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことであった。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになった。

中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙うに至った。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まった。
 そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に、辰韓が統一されてできた国が新羅となった。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となったが、後に百済、新羅に統合された。

 これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなった。朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりである。漢江を境にして人種が異なる。北は満州人であり、南は韓人である。この漢江を越えて侵攻することは、双方にとって難しかった。
ちなみに、日本人と韓国人は違うのだという事は、DNAの解析により科学的に判っている。

三韓と呼ばれる地に住んでいたのは韓人。今の全羅南道と呼ばれている地域。韓国人は自分の思い通りにいかないとすぐに「差別ニダ」というが、その韓国人自身が、全羅南道出身者を差別していることは余りにも有名である。
それでも、4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えはした。
 しかし、これは中国にとってはやっかいであることに変わりはない。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはない。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになるのだが、この頃の高句麗は存外つよく、その攻撃を全て跳ね返した。

 その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国があった。新羅である。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。
ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけである。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていった。
 この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は、百済と同盟を結ぶことになった。6世紀後半のことである。

 その頃、中国でも大きな動きが起こった。隋が滅び、かわり唐が中国を支配するようになった。この唐と新羅は同盟を結ぶことになる。660年のことである。
 唐と手を組んだ新羅は、さっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)させた。
この戦いは、日本も大きく関わっていた。白村江の戦いである。日本は百済を助ける為に大軍を送り込んだが、残念ながら敗退し、以後、半島からは手を引いた。日本は良い決断をした。この半島に関わっていると、ろくなことがない。

中国の後ろ盾を得て、668年に新羅は高句麗も滅ぼした。
しかし、この新羅が今度は唐にとっては目障りになることは、最初からわかっていることなのに、そんな基礎的な読みもできなかったというのが愚かといえば愚かだった。
共に戦った新羅と唐が、670年には戦争状態になり6年続きますが、676年に平壌に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると、新羅による朝鮮半島の統一が達成された。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)。
676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされたが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失って、後三国時代といわれる時代になる。
この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。

 高麗の建国者は王建(わんごん)。首都は開城(かいじょう)。この王建も、クーデターによって国を建てたのである。
当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られたが、この高麗王朝も、家臣であった武将・李成桂の裏切りにより滅びた。
 李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位し、国号を「朝鮮」としたのだというが、国号については中国にお伺いを立てた結果、与えられたものだともいわれている。意味は、朝=貢物・鮮=少ない、要するに貢物が少ない国だとして見くびられてのことであったという。
以後、数百年にわたり属国の時代が続いた。
日本が日清戦争に勝ったことで独立できたのだが、それを祝って作られた「独立門」を、いまの韓国人は日本からの独立を記念して建てられたものだと信じているという愚かさである。
もう一つ、彼らが目を背けて見ないようにしているものに恥辱碑というのがある。
中国が明から清に変わるとき、なにを思いあがったのか朝鮮は清に対し敵対的な行動をした。
怒った清が朝鮮に攻め入ったのであるが、朝鮮王は逃げ回るばかりで、ほんの数日で降伏しざるをえなかった。
宦官の掛け声に従って地面に這いつくばり、許しを乞うための三跪九叩等という屈辱的な礼をとらされた。
その屈辱を忘れないために朝鮮が記念碑を建てたというのなら解らなくもないが、「この恥辱を忘れるな」ということで、清に命令されて建てた碑なのである。
恨みを忘れないというのが韓民族だというなら、これを忘れて中国に擦り寄るような姿勢をとる今の韓国人をどう理解したらよいというのか?
恨みというのもご都合主義だということなのか?

ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名があるため、日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶ。
韓国は、自力で戦って独立しようとしたことはなく、日本が日清戦争を戦ったことで折角中国からの独立できたのに、その後も、ロシアからの南攻に立ち向かって国を守るという気概を持つことができなかった。
いつも強国の後ろについて戦うことしかしなかったから、自分たちが前面に立つ勇気が育っていなかったのが情けない。せめて日本と同盟を結んででも国を守ろうとする姿勢を見せていたら、併合なぞされなかったであろうに。
やむなく、日本は国防のために、日本の国力に数倍するロシアと、国の存亡をかけて戦わざるを得なかったのだが、韓国と同盟を結んでいたら、彼らは足手まといにしかならなかっただろうから、それでよかった。歴史が示す通りということになる。
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私が書いた小説 
ある日突然、頭に「これを書け」という声が響いて書き始めた小説「夏風越の(なつかざこしの)」は、書き始めてから年月がかかった。
どう書き進めるのかは、降りてくるお告げに従ってのことであるから、一気に何ページにも及ぶこともあれば、何か月にもわたって一文字も書かないということもありました。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むということなのですが、何かが時々降りてきて言われる通りに少しずつ書き進め、2018年10月10日、第12部の後、最終章をまで書き終えました。長きに亘り有難うございました。

小説は、こちらでお読みください。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054887709936/episodes/1177354054887713218


童話 「トイレの神様」・「お祖父ちゃんの神様」・「鬼切丸」・「昔ばなし」・「麦の命」・「猿酒を飲んだ天狗」・「狐のお嫁さん」・「花を摘んでいた少女」ほか、幼児に読み聞かせるのに良さそうなお話を書いています。

小説も童話も、カクヨム 百神井応身(シャクジイオウシン)で検索してみて下さい。
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