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擦り寄ってくるときが危ない
振り返ってみると、日本は、昔から半島との関りを持っても碌なことがなかったという歴史を持っているようである。
仲良くしても、恨まれるだけで益が乏しい。

白村江の戦いは、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。
倭国の援軍を得た百済復興軍は、一時的には百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
そこに唐が加わった。唐は高句麗との戦いに新羅と組むことで成功した経緯があるから、新羅との関りが強い。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
戦いの経緯はいろいろあるが、気が付いてみると当事者である百済と新羅は戦うことが殆どなく、日本と唐が前面で戦っていた。こんなばからしい戦いはやめて引き上げようと終結しているところに火矢が打ち込まれた。あざといことに半島の軍は唐にも同時にそれをした。
唐は当然ながら日本軍の背後を襲ったから、戦う態勢を解いていた日本は大敗した。秀吉による朝鮮戦争のときに、撤退しようとしていた薩摩軍を背後から襲撃した李舜臣と同じである。

次は元寇の役である。朝鮮は元にオベッカを使って日本を攻めさせようと図ったが、朝鮮軍がその前面に立たされる結果となり、全滅した。

次は日清・日露戦争である。朝鮮の自衛のために立ち上がることはなかった。
甚だしきは南北朝鮮戦争である。実質的に戦ったのは、米国と中国である。一落ち着きするとシレッとして出てきて大きな顔をするのが常なのではないのか?しかも援助してくれた国の悪口を言うのでは、とてものこと信頼できない。

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